仙北清孝の独り言

ご反論・ご感想はこちら
e-mail senboku@seagreen.ocn.ne.jp
へお寄せください。

2000年つづら書きへ
戻る 知識の泉


2001年11月21日 不幸中の幸いなのか? 突然のアクシデント 5(最終回)

 11月1日、この日から点滴は無い。「尿管結石」と言えど、痛みが無ければ全くの普通人である。ただ入院パジャマを着ている私が居た。お見舞いに何人か来られた。巷では「目をつぶした」とか「胆石で入院した」とか噂が立っているようであった。私は痛さも無く、ひどく元気だったので、お見舞いの人になんだか心苦しさを感じていた。11月3日に青年部員の結婚式の発起人代表をしているため、挨拶を考えていた。代理が読んでも大丈夫なように何回か文章を手書きで直していた。もし、このまま痛みが無く、いつまでもオシッコと共に石が出てこなかったら手術となるらしい。
「尿管結石の手術」は、現在ではメスで開腹はしない。患者のリスクと安全性がすこぶる向上したやり方である。それは・・・・まず、エビ状になって下半身麻酔。麻酔が効いたところで上向。足を広げて器具に乗せ、いわゆる出産の格好で手術開始。そして、○んち○の先よりスコープを入れ、尿道・膀胱・尿管へと進み石を掴み出すそうだ。スコープは細いらしいが太めのボールペン程度という。・・・・・しかし、私にとってこの方法はリスクが少ないとはいえ、精神的ダメージが大きすぎる。これだけは回避せねばと、11月2日は、階段の上り下りをダッシュで繰り返していた。
11月3日朝、余にも痛みが無いので自宅に帰ることになった。もし痛み出したら「座薬」を打つようにと処方された。私には「退院」と言うより「一時帰宅」感覚だった。午後から痛くなる不安を抱えながら結婚式に出る。増毛から1時間ほどの滝川なので、座薬をしっかり持って「どうか痛くなりませんように」と祈りながら行った。幸い、無事に発起人代表挨拶も出来、帰って来た。
「退院おめでとう」と会う人会う人から言われた。「どうも」と私は答えるが、心の中では「痛いほうが石が動くので、良いのだけど・・・」と思っていた。
11月4日から普段の果樹仕事に復帰した。なるべく体を動かすように心がけ、「痛くならないかなぁ」と願いつつ、ひたすら水分を摂っていた。オシッコは一旦ペットボトルに採り、よく観察してから流すようにしていた。沢山水分を摂ったオシッコは、透明度が高く、汚らしさは感じなかった。
そんな時、11月13日早朝、オシッコ時、ムズッとしたなと思ったら、「石」が一個出てきたのだった。V字型の約3ミリ位の黒っぽい石だった!。「ヤッタゼ」。しかも、その日の夕方、またもムズッとして見たら便器に石か当たる音がした。なんと2個目の石が出てきたではないか。2回目の石は4ミリ位。すごい!。快挙!
  どうしても見たい方はこちら
もう安心。16日の診察で、腎臓にもう一個あるが、危機は脱したと判断された。めでたしめでたし・・・・・

 青年部の集まったときに、私は「まだ腎臓に石が入っているんだ。定期預金みたいなもんだなッ」とジョークを言った。中々うまい冗談と自己評価したのもつかの間、部員のMがすかさず「それって負債でしょう!」と言った。私の腎石は確かに後から痛さが来るのだから負の財産だ。それに私の場合、右側の腎臓なので右手勘定、貸方科目でもあり、昌に「負債」であった。・・・・・・終わり

2001年11月13日 不幸中の幸いなのか? 突然のアクシデント 4 

「尿管結石」・・・・詳しいメカニズムは解明されていないようだが、腎臓内で石が出来、何かの拍子で尿管へ移動する。石の大きさは人により違うが、私の場合、レントゲンやMRIの結果数ミリだった。石の種類は沢山あって、たとえばビタミンCのとり過ぎ、また、シュウ酸の摂り過ぎ、就寝直前の食事など原因はさまざまだ。
石が管を移動するときに痛みを伴うと言う。つまり、痛いと言う事は膀胱の方へに移動している。痛くないのは停滞しているので、長期間その状態だと癒着の危険があり、その場合は手術となるらしい。「尿管結石」の治療法は、最新は手術せずに体外から衝撃波を当て破砕する技術があるが、大都会に行かなければ出来ない。数ミリ程度の結石は、自然に尿と流すのが普通だ。つまり、治療らしい治療はなく、痛くなったら痛み止めを処置するだけで、せいぜい溶かす薬が投与されるだけである。次の積極策、手術となった場合、現在は開腹することは無い。(詳しくは後ほど・・・)
10月31日、私は名実共に「患者」となり、血液造影のレントゲンを撮る。造影剤を血管注射するのだが、これがかなり太く、まるで馬の注射のようだ。30分ほど掛けて何枚か撮るのだが、一枚目を撮った直後、また腰が痛み出した。レントゲン係りの看護婦さんは急患室から座薬を持って来てくれたが、「もう少し我慢してみます。」とやや見栄を張った私。痛みは10分ほどでスーッと抜け、座薬のお世話にならずに済んだ。しかし、これが私の最後の本格的痛みであった。その後、病室に戻り、点滴3本した。泌尿器科先生は「沢山の水分を摂り、歩いたり階段上り下りをして石を膀胱へ落とすように」私の場合、石が小さいので通常尿といっしょに出てくるらしい。しかし、運動といっても病院の外はすでに寒くなっており、廊下や階段で運動するしかない。それに眼科では過激な運動は好ましくないと言われ、ジレンマに陥った私は、TVで大リーグ中継を堪能していたのであった。
水分は1日2000〜4000ccを摂りなさいということで、私は食事ルームにあるお茶のディスペンサーから番茶を汲んで来ては始終飲んでいた。オシッコは当然回数が多くなり、1日13回も行くようになった。トイレは各部屋にある。オシッコは一旦カップにとってビニール袋にあける。その際ガーゼを通すので、もし石が出てくれば引っかかることになる。しかし、私は無情にも石の気配はまったく無かった。
痛くなければ「普通の人」で、他の入院患者に申し訳ないと思った。
しかし、こんなのん気な入院生活と裏腹に思いもよらない事態になっていた!一体どうなってしまうのか!?・・・・つづく

2001年11月10日 不幸中の幸いなのか? 突然のアクシデント 3 

10月30日早朝、私は留萌市立病院の急患室の高いベットにいた。相変わらず強烈な痛みが襲っていた。「もう大丈夫ですよ、安心してください。腰の後ろ右側が痛いんですね。」「すぐに診察しましょう」と言って急患担当の先生が出て来てくれると期待していた。しかし、それはかなわぬ妄想にだった。どうやら私より重篤な急患が居た様で、私の症状とだけ確認し、私は血圧測定以外しばらく誰からもかまってもらえなかった。救急車内では腰を擦ったりいろいろ親切にされていたので、私は救急車に戻りたいと思った。やがて、「オシッコを採って下さい」と紙コップを渡されたが、痛くて痛くてオシッコなんて出ません。相変わらず脂汗。しばらくしてやっと一本目の注射。でも小さい!痛みに対しての効き目が無いまま、移動ベットでレントゲンとMRIの検査受ける。また急患室に戻され、別の先生登場。しばらくして2本目の注射。「オシッコ採れば判るんだけど・・・」と先生。しかし、一向にオシッコは出ず。それからどのくらいの時間が過ぎたのか不明。ひたすら腰を押えてうめいていた。レントゲンの写真が出来たのか泌尿器科外来に移動させられる。大勢の外来の待合する前をガラガラと車輪を響かせ移動。まるで市中引き回しだ「カッコ悪〜い」。でもまだ痛い。診察室では超音波エコーを使って診断。MRIの写真の結果、「尿管結石」であることが判明。大きさ2mm程度の石が腎臓から膀胱までの管にあって、これが痛い原因。MRI写真には腎臓内に別に2つの石も写っていて、将来これが管に移動したら又痛くなると言う。しかし、この時点で私の痛みは、若干薄らいだとはいえまだまだ痛い。医師は痛い腰のあたり2箇所に注射した。
「帰りますか?入院しますか?」と問われた。まだ若干痛いのと、目の方も心配だし、帰って又激痛が襲ってきたら耐えられないので、数日でも入院することにした。入院病棟へは車椅子で。早速点滴。私は見るからに「患者」となった。
午後から点滴をぶら下げ車椅子で眼科外来にも行った。「ィゃー、昨日の手術中に痛まなくて良かったですよ。手術中にノタウチ回わられたら大変だった」と眼科先生はおっしゃりまして、まぁ、そうれはそうだけど、なぁーんか他人事って感じで、何故かしら冷たさを感じた私でした。
病棟に帰り、また点滴続行。点滴には痛み止めの薬も入っているらしく、何時の間にか眠っていた。暗くなりかけた頃だったか痛さがぶり返し、ナースコール。座薬を入れてもらう。はずかいしなんて言っていられない。
10月30日は、時間経過の実感が無く過ぎ去った。
しかしこのあとの入院生活、予想だにしない事態が繰り広げられる!一体、どうなってしまうのか?!・・・・つづく

2001年11月07日 不幸中の幸いなのか? 突然のアクシデント 2 

10月29日、目の手術(といっても私の場合はメスで切開する事は無かったのだが・・・)の前、眼科医師から点眼麻酔をしますとの説明を受けたが、患者によってごくごく稀に心臓停止の恐れがあると聞かされ、「まさかぁ」と思ったが、リスクはどんな場合でもあるのだと思った。幸い、検査(ツベリクリン反応検査のように腕の皮膚にチョコット僅かに注射)の結果OKだっので、手術は無事に終わった。
10月30日、朝5時、おしっこへ行った直後、背中右腰あたりが痛み出した。最初は擦っているとなんとなく紛れていたが、徐々にしかし強烈に痛み出した。「痛い!」もう、擦っていた右手は腰に当てっぱなしになり、激痛になった。痛さはたとえようも無いが、しいて言えば「マラソンすると横っ腹が痛くなることがあるが、この何十倍もの痛さ」はたまた「内臓が破裂しそうな痛さ」だ。これは昨日の眼科の麻酔の副作用か投薬副作用ではないか?とか、マッサージ器に掛かりすぎたせいか?とか思ったが、しかし、痛さは無情にも続いた。
悪寒がした。しかし、体温は平熱。額から脂汗が止まらない。吐き気もした。このまま気を失ったほうが良いと思ったが、意識は遠のかず、痛さが一層襲っている。
朝7時前、救急車を呼んでもらい搬送されることになった。担架が家の中まで入らないので「歩いてみよう」とちょっとは思ったが、やはり無理。痛さと苦しさでどうにもならない。救急隊は私をミノムシ状態にくるんで救急車の担架まで3人?ががりで運び出した。救急車はギャーチェンジで、なんか古いなぁと感じながらも、車内では隊員が痛さで薄目しかあかない状態の私の腰を擦ってくれた。ピポーピポーが車内に響く中、途中吐き気を訴え、曲線の金属製うつわに戻しが、胃は空で僅かに液体が出てきただけだった。20分くらい走ったのだろうか。救急車の無線で隊員がやりとりしていた。どうやら増毛町ではこの時間、3つの救急要請があり、私が乗ったのは2台目で、古い救急車両だった。どうりで錆も見えていた。新しいほうはハイメデックの最新だが、まぁ、私は吐き気こそすれ酸素マスクも必要なかった。救急車は無事に留萌市立病院に到着し、私は急患室に運ばれた。痛さは一向に収まっていなかった。
しかしこの後、さらなる試練が私を襲う!いったいどうなってしまうのかっ?!・・・・・つづく

2001年11月05日 不幸中の幸いなのか? 突然のアクシデント 1

10月25日、そろそろ堆肥を撒かなければと、堆肥撒き機(マニュアスプレッダ)の修理に取り掛かった。堆肥を散らかす回転部のベアリングがコタコタに壊れていたからだ。このベアリングを新品に交換しようと古い壊れたのを外しにかかった。しかし、簡単には取れそうも無く、仕方なくタガネで叩き壊そうと何度か叩いた瞬間、小さな火花と共に欠片が右目に飛び込んできた。「イズイッ!」黒目部分に破片がネッパッテいた。ティッシュじゃー取れそうも無いので病院へ。外来の順番を待ってようやく診察。1mm程度の鉄片が刺さっている。針金状の器具で掻きだそうとするもとれず、細い尖ったピンセットで何度も挟もうとするがパチンと弾けてだめ。それでも何度もトライして、ようやく「あっ!取れた」と先生。目薬5種類もらった。角膜深く刺さっていたが、辛うじて穴が空くほど深くなく、また、素人治療のティッシュでやらなくて良かった。もう少し飛び散る勢いが強かったら角膜に穴が空き手術となるところだったし、また、素人がやって間違って押し込んでしまった場合も深刻な事になっていたはずである。
10月29日、眼科外来に行くと、「まだ残っている錆の粉もちゃんと取らないといけない」と先生。目と鉄は特に悪く、角膜内に残ると「鉄何とか炎」になるなしい。そこで午後から手術をする事に。手術着に着替えて手術室へ。脈のセンサーを指につけ、腕には血圧測定。右目部だけ穴のあいた布を被せられ、顔点眼麻酔を醤油のように垂らし、麻酔が効いてきたところでいよいよ開始。といっても、こちらは眩しい光しか見えていないので、どうやっているかは不明なるも、尖った感じのものが目をなぞっている様子。30分ほどで終了。この日は帰ってからも安静にして、休んだ。手術前後、血圧が高いと言われていたので、リラックスしようと、エアー式マッサージ器に何度もかかり、やがて眠ってしまった。
しかし、このあととんでもい事態が待ち受けていたとは・・・・つづく

2001年04月08日 農協合併問題

昨日、増毛町農協での合併問題で合併推進検討部会がありました。
増毛町農協は、隣の留萌市農協とその隣の小平町農協との合併を予定していました。
計画では今頃は新しい広域農協が出来ていてはずでしたが、いろいろゴタゴタがあったらしく、今回の会合は、計画から1年遅らせて妥協案とともに合併しようという内容した。
農協役員は合併しないと運営に必ず行き詰まるで、とにかく「合併ありき」と言う事で、我々に思考させずに原案どおり承認して欲しいと言う事でした。

まったく、合併促進法ってのがありまして、合併した場合の諸経費に助成金が出るのですが、その法律も時限立法のため3/31で終わっていて、これから合併した農協には税制面で優遇されるものの出費は数百万円余計にかかることになるそうです。これらに関して、3農協の誰も責任を取っておらず、理事者はとにかく増毛の場合は弱小の弱小農協だから仕方ないと説得するばかりです。

合併といえば、今後は市町村合併も話題に上りそうです。まぁ、北海道は支庁統合の問題が先に来ますが、いずれはこの問題が浮上します。

しかぁーし、合併ってのはねぇ、結局のところ「合理化による経費の削減」が一番の狙いなんだろうけど、良く考えるとねぇ、組織を大きくして、構成員一人当たりの経費やサービス、リスクを薄くしようと言う事だ。つまり、一人当たりの関わりを希薄にして、いろいろな問題をボカそうとしているのかも知れない。これって、我々が昔から農協のリーダー諭されていた「スケールメリット」ってことか。

2001年01月27日 平成12年度北海道青年農業者会議にて

 2001年1月24日25日札幌にて、北海道青年農業者会議に行きました。この会は、4Hクラブが中心となり、北海道などが後援し、全道の地方管内から選ばれたプロジェクト発表の場です。我々、増毛町果樹協会青年部は、過去4回行った「菓子バトル」を題材に発表し、グループ部門で最優秀賞をいただきました。

農業者青年の主張「アグリメッセージ」では、新規就農者や、女性ながら農業に憧れを持って研修している人の希望に満ちた発表に感心させられました。また、この部門の最優秀者は、出席者約400名の前で「農業者としての真のプロを目指す」と宣誓し、観客席の賛同を集めました。

我々果樹協会青年部は、グループプロジェクト部門(他には畑作、畜産など全5部門あります。)で、出場11組の激戦区でした。各チーム、液晶プロジェクターで投影しながらの発表でした。中には、旧態のスライドや、模造紙によるプレゼンテーションもありましたが、パワーポイントが完全に主流でした。

主催運営の苦労はわかりますが、気になった点を述べさせていただきます。

プロジェクト発表は液晶プロジェクターを使うため、照明を落とすのでが、暗くしすぎです。主人公は発表者なのですから、発表態度や表情が見える位の工夫がほしいところです。プロジクターはあくまでサブです。

開会、閉会の4Hクラブ道会長挨拶がありましたが、はっきり言ってお粗末でした。原稿も無くフリーで話すのは10年早いと思いました。私も人のことはいえませんが、この発表のために何日も練習してきた各出場者に対して失礼な感じでした。うまくしゃべられなくても良いのですが、それだったら原稿を用意して挨拶してほしいです。立派でなくても良いですから、ちぁんとしてほしかったです。あそこにいたすべての人は将来、農業分野でも有望な人材であることを肝に銘じて、これからもがんばってほしいものです。

2001年01月15日 21世紀の果樹業界は・・

 2001、新年あけましておめでとうございます。
 幼い頃から21世紀はどうなるのだろうと思っていました。TVや雑誌でいろいろ空想されていました。超高層空中都市とか超小型電話、ロボットなどの夢の絵が漫画で描かれていました。科学技術はここ数十年で目覚しく発展し、昔想像していた事がどんどん現実のものとなり、生活は豊かになりました。今後もエレクトロニクスや医療関係の分野は加速度的に発展して行くことでしょう。
 
 しかし、どんなに携帯電話が小型になっても、どんなにTVチャンネルが増えても「食べる」事は普遍でありつづけるのではないでしょうか。生活の利便性や豊かさは「食」がベースになっています。「食」が保証されてこそのいろいろな分野の進歩があることを忘れてはいけません。
 
 しかし、日本農業の現状は、もはや将来に夢もてる状況ではありません。ITとしか言わない首相を横目に農村はどんどん高齢化、空洞化し、担い手対策を叫べども加速度的に衰退しています。なぜでしょうか。日本は飽食といわれ、すべての人は「よりおいしいものを食べたい」と思っているはずです。この矛盾の根源は「経済」にあります。もうからない農業だから担い手が現れないのです。現在の日本で、便利な科学技術を享受する為には「お金」のシステムから逸脱した生活は出来ません。お金を物やサービスと交換することは将来も続いていくしょう。

 果樹生産は、今後どうなるのでしょうか。上記したように、「経済の原理」を考えると「厳しい」と言わざるおえません。しかし、果樹営農は単なる「お金」獲得手段と同時に「幸せ」の追求手段であることも忘れてはいけないとも思います。「経済性」と「生き甲斐」の両立する果樹生産は、意外と簡単な事であるのかもしれません。豊かな自然を相手にのどかな環境で果実の生育を見守るこの業種は、都市生活者などよりずーと恵まれています。

 「21世紀はどうなるのでしょうか。」そんな事は誰にも分かるはずはありませんし、どうでもよい事です。「21世紀をどんな時代にしていくか」なのです。今生きる私達の考えや行動で21世紀をどう切り開くかが肝心なのです。考え方、発想次第では、決して「厳しい」だけの事は無く、むしろ明るい夢ある事がたくさんあると思います。今問われるのはアイディアの集結です。果樹の奇抜で夢に満ちた発想を、昔夢見たIT技術を使って、今一度夢を交換しましょう。

2000年つづら書きへ
戻る 知識の泉