今野清次郎おじさんは、数冊の著述をしています。写真は我が家にあるおじさんの本の数々です。戦争中、饑餓の島「メレヨン島」からの生還を果たしたおじさんですが、メレヨンの英霊への鎮魂は生涯続けられました。全国メレヨン会では役員を務め、昭和54年には第4次慰霊墓参団に参加して、メレヨン島に再上陸をして、慰霊の旅を果たしております。
戦後は長くメレヨン饑餓戦没者を想いつづけた。毎年海山の幸として夏は桜桃を秋は生鮭を靖国の戦友へ供えた。
さて、彼の本は数冊あるものの、内容は似ております。これはプロの書き手ではないので、出す本が加筆添削等によるものと思いますが、基本的柱は、戦争でのメレヨンの出来事ともう一つは「ふるさと増毛」を想う二本柱です。
大正11年生まれ、別苅小学校高等科、増毛青年学校卒業後、軍へ入隊し帰郷後、増毛町農業委員・農共済組合長、農共副組合長、改良区理事長、増毛町議会議員、社会教育委員などを歴任されております。
特に増毛町がニシンで振るわなくなるので農業振興は欠かせないとして、中歌上の開田に尽力し、箸別川からの取水路を始めとする水田振興に政治的に力を注ぎました。しかし、工事の遅れ等から自らも開田事業をするも資金繰りができず、離町を余儀なくされました。
そのちょと以前、昭和30年と思います(年代が書かれていない)が、増毛町12代中江町長誕生の裏話が載っています。
全道農協青年部長会議が層雲峡朝暘荘で行われ出席すると、元町長中江庄三郎氏が恩給継続のための支配人をしていた。増毛の現況を語り、今後の行き方を一晩中語り合った。中江氏は最後に機会があれば、再度役に立ちたいといって別れた。黒岩尻電化運動に協力してもらい、八年目に追放解除になって深川で打ち合わせをした。中江氏に増毛に来てもらい農協に顔を出して、私は一汽車遅れて帰り、山形屋で落ち合った。町では中江氏が町長選に意欲があるとニュースが流れた。当時現職のバックは有力だった。部落の青年幹部に呼び掛け、町の現況を語り、将来の方向を話し合った。今の町生産力の比率を漁農、七分三分になる様に努力する等、町政の改革に協力する様、懇願した。別苅の川向之夫君、中歌の小林君、箸別の古村忠雄君に舎熊阿分幹部等多数の賛同を得て、徹夜して届出一番を得て選挙戦に突入した。若い人達はペダルを踏んで各地をかけ廻った。町長候補は四人で現職は優位、我が方は候補はよいがバックは弱いと評された。雄冬の舟入間に着くや高台に向かって中江、中江と叫び続けた。細い崖の道を杖をつかせて越し、岩尾(ヤマカ)旅館に着いた時は暗くなっていた。町議候補で正式に中江氏支持を表明したのは西方作松氏一人だった。
二度となるまいと思ったほど厳しい戦いで、最終二二五票の差で当選した。開票が終わって公会堂を出た時、東が白くなっていた。若い人達の力に感謝し、これからの町政を思い乍ら、皆の待つ事務所までの道は涙が止まらなかった。その直後、有力者から町長に対する進言を頼まれた。断ると今の町長は君の言う事以外は聞かないだろうと言われたが、私は公私の区別ははっきりつける信念は変わらなかった。
中江町長は上川町、鶴野木工場社長から、瀬戸の観音様をゆずられていた。捧持以来縁起がよいと毎月の二十八日は私を呼び、二人で供養したその折、日頃考えている三つの私案を話し合った。一つはは陸上の再開発、二つは漁もうすく耕地はせまい、人手が余るし仕事がないと人が減るので町民の働く場所の誘致、三つ目は留萌を通らないで札幌へぬけられないか、つまり袋地から抜けたい願望であった。古老から留萌と発展争いに負けた事を聞かされて育った私は、淡い夢を持ち続けていた。中江町長は行政のエキスパートとして直ちに反応を示した。留萌開発建設部を通して運動を起こした。部長からもらった特殊模様のネクタイを私に渡し乍ら、その都度運動の経過を知らせてくれた。上京では課長を交替で伴い大蔵省主計局に陳情を重ねた。常に「主計官を夕食に誘って来てくれるとしめたものだ」と言っていた。旧来型陳情方法である、五〇〇万円の調査費がついた時、これでいつかはこの道が抜けると喜び合った。
国道231号線、現在私は札幌へ行く時、大変便利に往来しておりますよ。