プリンシプルのない日本

 白洲次郎のプリンシプルのない日本を読みました。前エントリコメントで、「プリンシプル」は造語と思うと書いたのですが、調べましたらprinciple法則; 主義; 基本的な知識; 道義, 節操、原則、原理などの意味がちゃん … “プリンシプルのない日本” の続きを読む

 白洲次郎のプリンシプルのない日本を読みました。前エントリコメントで、「プリンシプル」は造語と思うと書いたのですが、調べましたらprinciple法則; 主義; 基本的な知識; 道義, 節操、原則、原理などの意味がちゃんとあることがわかりました。
 この本を読むともう一つ「筋を通す」とか「潔さ」ってのもあるんじゃーなかろうかとも思いました。
 前エントリコメントで仁左衛門さんが引用した「新憲法のプリンシプルは実に立派である。戦争放棄の条項などはその圧巻である。押し付けられようが、そうでなかろうが、いいものはいいと素直に受け入れるべきではなかろうか」とありましたが、その一方で、こうも申しております。

この憲法を平和憲法だなんていってありがたがっている御連中は、おそらくこの憲法の出生由来を知らないのではないだろうか。占領中こういう政治問題を取り扱うGHQのある部局の幹部の一人は、この憲法草案が如何に出来たかということを自慢たっぷりに話す程不謹慎であった。又その部局のオエラ方の夫人は、当時休暇で日本にいた大学在学中の惣領息子が草案の一章か一項を書いたんだと親馬鹿流に公言していたということをGHQの高官の一人が、なげかわしく私に話したのをおぼえている
 マックアーサー氏が憲法で戦争放棄を規定したのは文化的の前進だとか、進歩だとか、はっきり何と云ったか忘れたが、兎に角大げさに自画自賛してたに拘わらず、中途から、戦争放棄を規定したからといって自衛権まで放棄したのではないなんて苦しい言いのがれをいわざるを得なくなったのも、この占領方針の転換の一つの表れであった。憲法をでっち上げたときには一つの考え方で、それを適用する時には別の考え方をしなければならなかった破目に陥り、色々と思わぬ苦労を重ね、又いまだにその苦労を重ね続けているのは一寸笑えぬ喜劇である。

 憲法の草案を作ったときは連合国による占領だったのに、運用段階でアメリカ単独占領と方針が転換されたが故の話しで、これは決してプリンシプルではないと思いますね。
 しかし、未だに憲法論議が繰り返されているのにいっこうに進んでいない今の日本の現状は「笑えない喜劇」ですなぁ。
 それはともかく、白洲次郎の頑固だけどかっこいい生き方には、多くの方が共鳴し、あこがれるんじゃーないでしょうか。

「プリンシプルのない日本」への2件のフィードバック

  1. いっそsenkiyoさんもツイードのジャケットで過ごしてみてはどうでしょう。
    (^_^)

  2. 僕は背が低くくてスーツなんて似合わないし、農作業中は背広ならぬ「背ポロ」着ているのか合っています。。。

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