3月 252006
 

 土地改良北海道と言う冊子があります。これは(社)北海道土地改良建設協会が発行している機関誌で、一般には売っていません。おそらく、会員である道内の土建会社や役所?あたりに配布されていると思いますが、普通の人はまず目にしないはずです。その冊子の2006年1月・41号に私の寄稿しました文が載っていますので、何回かに分けて私の寄稿文を紹介します。
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自然の恵み
          増毛町 ヤマセン仙北果樹園 仙北 清孝

【意外と古い増毛町における果樹の歴史】
 全国視野で見て、リンゴや梨、サクランボなどの落葉果樹の産地は、ほぼ限定されています。それは、開花期に風が強い地域は適さない事と、なにより寒冷地作物でありながら、寒すぎても適さない、環境に敏感な作物だからです。北海道に於いて、これらの果樹産地は、多くありません。有名なのは余市町、その隣の仁木町でしょう。その他主な産地は、道南の七飯町、洞爺湖周辺の壮瞥町、旭川?岩見沢にかけての空知地区、そして増毛町です。また他に小規模産地では、浜益・上ノ国・長沼・札幌などあります。
 増毛町の果樹は、産地として北限となります。果樹の作付け北限は初山別村と思いますが、果樹園は一軒しかなく、集団的に作付けされ経済活動をしている「産地」として捉えるならば、やはり増毛が北限と言えるでしょう。
 そもそも日本で、りんご作付けは、明治初期にアメリカから苗木を導入したことから始まります。りんご栽培は、青森県があまりにも有名ですが、その始まりは北海道です。当時、アメリカから輸入された苗木は75種で、番号で呼ばれました。後に14号は「祝」、49号は「国光」、6号は「紅玉」と名付けられました。
 輸入された苗木は、試験的に七飯や余市など道内数カ所に配布され植え付けられたのですが、その中に増毛町は入っていません。しかし、明治12年、小樽で「金のなる木」と称するりんご苗に興味を持った、当時の増毛の有力者が苗を入手して帰宅、庭先に植えたのが増毛町における果樹の始まりです。その4年後、石の多さから開田に適さなかった暑寒沢地区に本格的にりんごが作付けされました。増毛町の果樹栽培は、最初の苗木試験地に選ばれていませんでしたが、町の先駆者により産地形成され、道内他産地と同等の古い歴史を有しています。

【自由競争で揉まれ多様化する果樹】
 農協組織が出来たのが約50年前ですから、増毛における果樹はそれより遥かに古く、当然、出荷は、自分達で行っていました。りんごは、生産量が増えるにつれ、庶民の「ちょっと贅沢な果物」になっていきました。出荷先は、市場や仲買さん、商店だったり様々です。「商い」と言ってリヤカーなどにりんごを積んだり、背負ったりして売り歩く人もいました。現在でもボンゴ車で商いをする人もおります。
 物流が盛んになり、いろいろな果物が輸入されるようになると、りんごの市場価格は低迷するようになります。昭和後期、りんごは台風など強風で落果を招くリスクがあることで、果樹園では、他の種類を複合的に栽培するようになります。りんご価格低迷が拍車をかけ、りんご畑は、ブドウ畑になったり、サクランボが植えられたりしました。
 増毛のサクランボは、文献こそ無いのですが、残存していた樹の太さから想像するに、百年近く前であり、本格的に栽培するまでは、りんごの防風林代わりに植えられていました。サクランボは、風で落果する事はないのでりんごのリスク分散には適しており、なにより夏の内に収入を得られる魅力がありました。減反政策により、新たにサクランボ植え付けされた圃場もありました。
 さくらんぼが本格的に経営の基軸の一つになると、あらたな問題が出てきました。サクランボは収穫直前、降雨に逢うと実割れを起こして商品価値が無くなるのです。増毛ではサクランボは7月に収穫されます。20年前以前は、増毛の7月の降雨は比較的少なかったのですが、気象の変化は地球規模で変異して、現在増毛で7月は量・回数とも降雨が一段と増えてきました。

づづく

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